2014/08/16

ピック病 ー引き裂かれた家族ー

ピック病 ー引き裂かれた家族ー

私は四方を山に囲まれた田舎の生まれである。そこに住んでいた当時は、町医者が近くにあったのだが、過疎化が進んだ現在は無医村である。病院も買い物も約10kmほど離れた町まで行かなければならない。

JRと言えば電化などされるはずもなく、1時間に1~2便が停車する程度である。久大本線と日田彦山線が合流するこの「夜明駅」は、鉄道ファンには名前が珍しいということで有名らしい。無論、無人駅である。
この駅から約10kmほど下った所に親戚が住んでいるが、近年はすっかりご無沙汰している。
今回はその親戚、伯父の話しである。




いつの頃からか知らないが多分50年くらいの間、伯父は洋裁店を一人で商い、洋服の仕立て直しやテーラーメイドの紳士服を縫っていた。寡黙で実直な人であり、仕事を終えるとパチンコに行くのが楽しみだったという。

数年前、そんな伯父から実家の親宛に手紙が届いたのだが、過去と現実と虚構が交錯する支離滅裂な内容であった。手紙をやり取りする慣習もなく普通に親戚付き合いをしてきただけに、私には怪訝に思えた。それから暫く音沙汰のないままに時が流れたある日のことである。伯父は数10kmほど離れた所で警察に保護されたという知らせを聞いた。

それで従姉妹(伯父の長女)に電話で話しを聞くと、「前頭側頭型認知症で入院している。暴力が酷くて身体拘束を受けている」ということであった。私はピンときたので、「前頭側頭型認知症(ピック病)にはアリセプトは使えないが、どういう治療をしているの?」と尋ねてみた。
「どういう治療をしているのか分からない。治療は病院に任せている」と従姉妹は言う。

後日、自宅から約100kmほど離れた田舎に伯父の見舞いに行った。伯父の入院中の病院は認知症治療専門の病院である。某学会の認知症治療研修施設でもある。
殺風景で暖かみの片鱗さえ感じない病院で、老い衰えて変わり果てた伯父に久しぶりに会った。ベッドの両サイドの柵には拘束用のベルトがあった。病室に入った私達には無関心であったが、私達のことは会話を進めるうちに幾らか思い出したように思えた。アルツハイマー型認知症(ATD)のような「その場凌ぎの取り繕い」をしないから、たとえ一時的にであるにせよ、私達を思い出し認識したことであろう。

私はどういう治療をしているのか主治医に訊いてみたいと思ったが、従姉妹も私の家族も「主治医との関係があるから」という理由で会うことを咎められた。(医師に何の遠慮がいるものかと思ったが、引き下がらずを得なかった。) 
田舎ほど、また年齢がいった人ほど、「医者は絶大な権威を持ち、仰ることのすべては絶対唯一正しい」と思う傾向にあるように思える。
私は、前頭側頭型認知症(ピック病)には、ウィンタミンとフェルガードが合うから相談してみるように従姉妹に助言して病院をあとにしたのだが、私のような素人の助言など、それが正しいことでも、聞き入れてもらえる筈もない。

それから1年経てまた見舞いに行った。ちょうど車椅子に乗り、他の患者と共にデイルームに居た。従姉妹に声を掛けられて私達の元に伯父がやって来たが、暫く話しをするうちに私達のことを認識したようである。しかし、歓談の終わらぬうちに伯父は気の向くままに遠くに居る集団の方へ立ち去って行った(立ち去り行動)。これが症状のひとつなのであるから仕方ないが、遠くからわざわざ会いに来ただけに残念でならなかった。

その談笑の途中、ひとりの老婆が独歩でやって来て私の隣に、身体が触れ合う程の所に座った。ひと目見ただけでアルツハイマー型認知症(ATD)だと直感したので、「こんにちは。調子はどげなふうかい?(調子は如何ですか)」と声を掛けた。すると、その老婆は「いいばい。(良いですよ)」と愛想良く答えた。多分、ピュアなATDで、治療が上手くいっているのであろう。
「あんたんこつが気になって来たつばい(あなたのことが気になって会いに来ました)」と私が言うと、その老婆は喜んで「よう来てくれた」と言った。初対面なのに実にあっけらかんとして人なつっこいのである。暫く井戸端会議のように会話が続いたのだが、その様子を隣で見ていた私の母は「知り合い?」と訝しがって私に訊いた程である。
 
それからまた1年経過したが、見守りの手が掛かるので息子夫婦との同居は見込めず、また受け入れ施設も見つからず病院に入ったままである。今では面会に来た実の娘のことさえ分からなくなってしまっている。由々しきことは、恐らくこの病院は地域の認知症治療の中核的存在であろうということである。入院している患者・家族は言うに及ばず、そこで従事する職員もまた哀れなものである。間違った治療が、不当かつ過大な看護・介護負担を課しているからである。こういう事例(惨劇)は全国各地で生じていると思って間違いない。


この人に聴く 長尾和宏先生

長尾先生(長尾クリニック院長、認知症治療研究会世話人)のお話しである。私の父(故人)は癌ではなかったのだが、嚥下機能を失い胃瘻となった。住宅改修までして在宅介護を家族で分担したが、結局病院で最期を迎えた。在宅中は、母、姪(看護師)、息子(介護士の私)、私の妻の4人で24時間体制、加え訪問看護サービスも利用させて頂いた。私流に言えば「恩返し」のつもりであるが、どれだけ恩を返すことができたか一抹の悔いは残る。
平穏死」であったか? 多分そうであったと思いたい。入院先の病院は、「延命措置しません。必要最低限の医療しかしません」と言っていたから、枯れるような最期であったので平穏死なのだろう。この平穏死という言葉をもっと早く知っておけば良かった。因みに、父は上に掲載した駅の駅員であった。蒸気機関車が走る時代のことである。



長尾先生と言えば、朝日新聞の医療サイト apital の町医者だから言いたい」に毎回投稿されている。こういう記事を欠かさずこまめに読み続けるのもひとつの勉強方法だろうと思った。